人が自らの名を偽り、別の人格を演じる必要に迫られるのはどのようなときか。自分が 何者であるかが特定されると困ったことになるという場合が、まずはそうだろう。リアルを特定され晒されることは、いつの時代に偽名を名乗る者にとっても大きな脅威となりうる。しかしまた別の場合に、人は何か好ましいものに、憧れのあの人になりきってみたいという動機から演技の動作を始めるかもしれない。子どもは想像力にまかせて色々なもの に変身する。かつて私たちは空想のなかで無敵だったことがある。
自己保存と変身願望。現実の私にまつわる不安と他なるものへの憧れに押し出されて、 私たちは自分ではない自分を身にまとう。
それなりに親しい付き合いのある友人として言うと、井手さんはいつも身辺に不安を抱えながら、しかし同時にいつも遠い憧れに顔を明るく光らせているような人だ。彼の頭は好きな音楽、映画、思い出、ネコのことでいっぱいで、自分の財布の中身とか、いま何時だとか、その場にいる誰かがちょっとイライラしているとか、そういうことにまではなかなか気が回らないようだ。なぜそうなのかと考えてみると、自身の置かれたしばしば耐え難い状況から何としてでも逃れたいという切迫した欲求もありそうではある。とはいえ、そうした夜逃げのような生々しさの裏返しで維持される夢見心地にしては、井手さんは真剣にうっとりしすぎていると思う。そういうとき彼は、誰もがするように、たんに人生を楽しんでいるだけのように見える。
今回のアルバムは、不安な日常性をついに完全に抑圧することに成功した(現実に克服 したわけではないだろうが)井手さんの無敵モードである。この曲たちが流れている間、 彼は偉大な宇宙の放浪者でいられる。彼は局外者を演じることで、むしろ祭りの中心に居座る。その周りで踊っているのは妖精、幽霊、いずれにせよ人間以前あるいは以後のものだ。一般に、王と犯罪者は、上か下かの違いこそあれ、マジョリティが構成する社会のボリュームゾーンから外れたところに位置している点で同類であり、互いに置き換わることができる。至高の権力者はたびたび見世物のように処刑されてきた。祝祭が通常の秩序を転倒させるとき、野蛮だったものは一転、崇高なものになる。その点、エクスネ・ケディは最も弱いと同時に最も強く、ばっちり排除されていると同時に世界の中心そのものでもある。首を締めたようなヴォーカルの恐ろしくファニーな響きは、あまりにつらいことの多い人生を通して人が身につけていく絶望的な陽気さに似ている。私たちはここに普遍的な反対の一致のようなものを見る。私たちの世界を外側から眺める聖愚者の観点に立つとき、通常の遠近法は逆立ちさせられている。そこから見えるものは、何もかも奇妙に歪んでおり、こんなにも美しい。
彼はいっそのこと自分が「人間」ではないと信じることにしたのだと思う。「人の子だってバレないように、赤い血だって知られないように」。素性の明かされるときが、この映画の終わるときである。幽霊のたてる音と交信を試み、妖精たちのささやきと会話をすることは、もう人間のやることではない。そして、たぶん、もしかしたら、詩を書くことも、ギターを弾き歌うことも、時間と金と才能をじゃぶじゃぶ濫費してこれほど愉快な作品を作りあげることも。しかし、今となってはこれらのことを咎める声もあがらないだろう。 光を失い、帰り道の暗さに迷ってしまった人が、別のどこかに漂着することができたというのなら、彼のことを気にかけていた者にとってこれは掛け値なしに良い報せである。